−R5− 世の中を歩き回るブログ

頭を使って歩こう。朝まで歩こう。5年後の自分に向けた備忘録。

共感を生む発信とは、ビッグフットの足跡を作る行為ではない。

成長について、思うことがある。

過去の自分を振り返って見て、どんな感想を持つことができたら、

今の自分は成長してると言えるんだろう。

 

ブログって、

そういう意味だとすごく客観性を持って過去を振り返れるツールだなと思う。

その当時、自分が考えたこととか、思ったこととかを文章にしていることで、

今の自分と究極的に第三者視点で比較できるから。

 

もちろん、昔の日記を見返すのが恥ずかしいように、

過去のブログを見返すのってすごく勇気がいるんだけど。

 

僕は、7年前から続けているブログがある。

不定期に写真を載せたり、文章を書いたりしているブログがある。

 

頻度も毎日更新することもあれば、

数ヶ月に一回くらいしか更新しないこともある、すごく適当なブログなんだけど、

それでも7年間やめないで続けてきた。

 

 

 

最近、ブログに限らず、色々なところで普通の人が発信者になる場面が増えたと思う。

SNSが身近になって、クラウドソーシングも発達して、

プロもアマも関係なくなって、誰でも世の中の人に支持される環境ができた。

 

人間って基本的には「認められる」ことに対して、

ポジティブな感情を抱く生き物だから、そうした環境の変化で、

多くの人がフォロワーからリーダーになるチャンスを活かそうとしている。

 

だって、インスタやツイッターには、芸能人でも有名人でもないのに、

フォロワーが10万人以上いる人がわんさかいるんだもん。

自分の投稿一つに、何千のいいねがつく感覚って、

この時代にならないと絶対に味わえなかった感覚なのに。

それが、今はできるようになっている。

 

だから、多くの人がそこを目標にしている。

インスタバエとか揶揄されているけど、

どれだけインスタ映えするものを投稿して、

どれだけいいねもらえるか。

どれだけ共感を生むツイートをポストして、

どれだけリツイートされるのか。

そこに焦点があたるのは仕方ないんだと思う。

それって、ある種の射幸心のあらわれだから。

 

だけど、そこだけをゴールにしちゃうと、

いつかは楽しさよりも疲れが先に来てしまう。

この写真じゃこれしかいいねがもらえない。

こんなツイートじゃ全然リツイートされない。

 

結果的に、インスタをやめて、ツイッターもやめて、

自分を発信するチャンスを、自ら絶っていく。

 

でも、すごくもったいない。

これだけ自由に発信できる機会が転がっているのに、

手段と目的を履き違えて活用しないのって、

5年後の自分に対してもったいない。

 

だから僕はブログを続けていた。

更新頻度が何ヶ月に一回だとしても、

それによってせっかく増えた訪問者がどんどん減っていったとしても書き続けた。

 

僕が書き続ける目的は、

訪問者を増やすことでも、いいねをたくさんもらうことでもなかったから。

 

いつかそのブログを読み返した時に、

少しでも当時の自分から気づきを得られると思っていたから。

 

きっと、発信者になるチャンスが増えたからこそ、

人はチャンスを無駄にしたくない気持ちの方が大きくなってしまったんだと思う。

 

でも、大丈夫。

ぶっちゃけそんなにセンスないから。

ふつーに生きてきて、ふつーの生活している人から生まれ出るものに、

そんなに輝くものなんてそうそうないから。

僕も、君も、そこまで変わらないから。

 

もっと気軽に、自分の足跡を残していこうよ。

その足跡の形に、共感してくれる人がいればそれでいいじゃん。

いいね欲しさに、無理やりビッグフットの足跡を作る必要なんかないよ。

 

むしろ、過去の自分の足跡を振り返った時に、

何かを感じることができさえすれば、発信し続けた意味はあると思う。

ブログとか、ツイッターとか、インスタとか、

5年後の自分に向けた成長記録なんじゃないかなって。

 

そんなことを考えた、お盆やすみ。

今週のテーマ:昔のことを思い出していた ①

昔のことを思い出していた。

 

今は丸くなったよねと言われることが増えた。

それは、体型のことだけじゃないと思う。

昔はもっと尖っていたんだと思う。

それは、もちろん体型のことだけじゃなくて。

 

世の中に噛みついていたし、周りの人間にも噛みついていたし。

どれだけ空気が読めなくても間違っていることに迎合することなんてなかった。

後先を考えずに、周りの人間の評価なんて顧みずに、

自分なりに芯を通してまっすぐ生きてきたつもりだった。

 

社会の空気を読む、という大義名分を掲げて、

自分を殺して生きながらえるだけの腐った大人にだけはならないつもりだった。

 

いつからなんだろう。

そんな大人をバカにできなくなったのは。

 

あの人も、ああ見えて苦労しているしな。

ここでこういう発言をしたらあとあと面倒臭そうだな。

これでも、俺は精一杯やっているんだ。

 

いつからなんだろう。

そういう大人の一部になってしまったのは。

 

人は、大抵歳を取るごとに経験するものが増えていく。

人生経験というものが増えていき、刻まれるものも増えていく。

それが、大人になるということなら、

昔の僕なら喜んで子供のままを受け入れていたはずだった。

 

それなのに、今ここで社会にかろうじて順応して、

あるいは順応しようとしている僕は、

あの時絶対になりたくないと思っていた大人に片足を突っ込んでいるような気がしてならない。

 

それが社会から求められていることであって、

社会で生きるために必要なことだということは十分わかったうえで、

そんなクソみたいな生き方をしていてはいけない、と自分自身に警鐘を鳴らそうと思う。

 

だって、大人になんかならなくてもかっこいいおっさんになれるはずだもの。

 

世の中の大多数の人が歩くレールの上に乗らなくても、

人は生きていけるはずだから。

 

時に、それはクリエイターと呼ばれ、

アーティストと呼ばれ、アウトローと呼ばれ、先駆者と呼ばれ、革新者と呼ばれる。

 

そんな人たちが、生きてきたように。

僕は、もう一度振り返らないといけない。

ここ数年の自分の生き方を。

そして、自分自身が思い描いていた5年後を。

 

クソカッコイイおっさんになるためなら、

世の中で後ろ指を指されるような人生、喜んで進んでまいります。

それでは、引き続き何卒よろしくお願い申し上げます。

 

敬具

レシートはエロい

結局、非日常がエロさにつながると思う。

 

パンチラしかり、露出しかり。

日常の中で普段目にする(行動する)ものはエロの対象になりにくい。

だからアフリカの現地民族がおっぱい丸出しで生活していてもエロさは感じない。

 

レシートのエロさは、そこに由来すると思う。

 

レシートが持つ非日常性

普通に生きていて、他人のレシートを見ることって少ない。

よっぽど頭のネジが外れたやつじゃない限り他人の財布に触ることはないし、

そこからさらに財布を開いて中身を見るようなやつはが近くにいるなら、

早く縁を切った方がいいと思う。

だからたぶん、さらに一歩進んだド変態じゃないと日常的に他人様のレシートを拝見することなんかないということです。

 

あと最近はレシートを貰う人が少なくなっていることも大きい。

コンビニとか行っても、レシートくれなくなったじゃないですか。

あれって必要としている人が少なくなったからですよ。

コンビニアルバイト時代はレシートを頑なに受け取らないおっさんにも、

返品の為とかにレシートを無理やり渡していた僕ですが、 

今はレシートがいるかいらないかすら聞かないですからね。

それもどうかと思うんですけど。

 

まあ、そんな話は置いといてそれくらいレシートって今はレアになってきているんですね。

ポケモンGOで言ったらモンジャラくらいのレア度ですね。

 

レシートが語るパーソナリティ

レシートの何がエロいって、購入した本人が語らずともその人の嗜好性と趣味をさらけ出してくれることですよ。

だからね、雑貨屋とかスタバとか、そんなおしゃんな店のレシートなんかこれっぽっちもエロくない。

できるだけ日常に近いところの店でのレシートがいいですね。

それこそコンビニとか。

例えば普段コンビニでサラダチキンとか、ドリアとか買ってオフィスで食べてる女の子が、

会社からの帰り道のコンビニではがっつりカップラーメンとかビールとか買ってたらちょっとギャップあるじゃないですか。

そういう感じがあればあるほどいいですね。

TSUTAYAで借りたDVDのラインナップがまったりラブロマンスじゃなくて、「死霊のはらわた」「ダイハード」「SAW」とか、そんなのレンタルしてる子ってちょっといいじゃないですか。

そんな感じ。

 

レシートが教えてくれる生活感

あとね、一定期間分のレシートとか、複数枚にわたるレシートは

読み込んでいくと生活スタイルが見えてくる。

例えばコンビニのレシート3枚でも、だいたい何時くらいに帰ってきてるのかとか。

休みの日のレシートが5枚あれば、どんなところに遊びに行くのかとか。

ストーカーってこういうところも抜かりなくチェックしているんでしょうか。

ストーカーがゴミ袋を漁る理由ってそういうところにあるのかも。

いろいろな持ち物からその人を知るというか、想像していくというか。

ただの紙っぺらが何枚も集まると人の生き方が見えてくるってちょっと面白くないですか。

 

 

 

そう考えるとレシートってすごくないですか。

これ絶対流行ると思うんだけど。

レシートフェチみたいなのいないのかな。

 

ちなみに僕は微塵も興味ないですからね。ほんとに。

人のレシート見ても興奮しないですから。

でも、気になってる女の子のレシートが合法的に見られる状況があったら、

間違いなく見ますけど。けど、絶対興奮しない。だから大丈夫。

国語ができるようになるために必要な10の方法。

大前提として

国語に必要なことは、センスではない。

センター試験も、中学のテストも、マークシート形式も、記述式も、

国語の問題の解き方なんてすべて一緒だ。

 

それさえわかれば、あとは脳みその訓練次第で現代文なんて満点がとれるようになる。

 

だから、

日本に生まれて、日本で育ち、日本語を毎日何時間も扱い、

日本語を使ったコミュニケーションに長けているはずなのに、

クソほども国語ができない人にこそ、読んでほしい。

 

国語ができるようになるために、センスというものは微塵も必要ない。

だから、国語がクソほどもできない人にこそ読んでほしい。

 

■そもそも、なぜ「国語はセンス」と言われるようになってしまったのか。

それは、英語や数学や社会とは違い、

国語は日本語そのものが対象だからだ。

国語の多くは日本語を扱う。

日常的に触れているモノだからこそ、 「これができないなんてセンスがないね」

といった話になってしまう。

数学も算数の延長上で「センスがないね」と言われてしまうのも

小学生よりも前から触れている数字というものを扱っているのが要因だと思う。

(もちろん、数学にもセンスなんていらないと思っている)

 

でも、何も心配いらない。

センスという不確定な要素に頼らず、少しでも国語の点数を上げようと努力する人には

きっと国語の神様も微笑んでくれる。

 

国語の問題を解くのに必要なことはたった一つ。

すべては論理であり、解法があり、答えが書かれている文章の中から答えを探すだけの作業だと言うことに気づくこと。

それだけで国語ができるようになる。

 

簡単に説明するために、

国語ができる=センター試験で9割程度とれることと仮定しましょうか。

 

国語科目は200点満点。

その内訳は

・現代文100点(評論・小説)

・古文50点

・漢文50点

というものですね。

 

つまり、古文・漢文よりも現代文の比率が高いので、

必然的に現代文の勉強の割合を増やし、得点を稼ぐ必要があるということ。

こんなことにも気がつかず、半ば暗記科目同然の古文や漢文の勉強に身を捧げているのであれば、とっとと目の前の参考書を破り捨てて、現代文の参考書を3冊買ってきて取り組み始めた方がよっぽどいい。

 

もちろん、古文も漢文も単に覚えるだけではない。

高得点をとるための方法はあるけど、そんなもの自分で探してほしい。

 

僕が伝えたいのは現代文ができるようになるための準備と、その方法だけです。

なぜなら国語に苦手意識を持っているほとんどの人が

現代文に嫌悪感やアレルギーを示すから。

 

 

でも、わかります。

なぜなら僕は化学とか物理とかザ・理系科目に対して全く同じ反応をしちゃうから。

だって化学も物理もわけわからない数式とか単位とか出てきて、

実際のもののイメージが全くできないんですもん。

 

つまりね、得体の知れない物感が半端ないんですよね。

暗闇にたたずむコートを着て下を向いている女くらい得体の知れない物感。

怖いんですよ。

 

だからといって、落ち込む必要は全くありません。

得体の知れない物に苦手意識を持つのは、それが得体の知れない物だからです。

相手が何者か、そしてどんな対処をすればいいのかがわかっていれば、

まるで怖くない。

コートの女も実は君のストーカーで、その正体は隣の隣のクラスの目立たない○○ちゃんだったとしたら、

その怖さはある程度軽減されるでしょ。それと一緒です。

でもそんなことするクラスメートがいたら刺される前に逃げてください。

 

■まず、国語を知ってほしい。逃げないで知ってほしい。

相手を知る=対策がわかる=解けるようになる=得意になる

です。

 

ここからが本番。

現代文を解くにあたって大事な要素があります。

①答えはすべて問題の中に書かれているということ

②答えを導く方法はセンスや勘ではなくすべて論理(ロジック)であるということ

③漢字問題などを除き、基本的には勉強なんかしなくても解けるようにできているということ

 

この3つだけです。

 

 

■そもそも、なんで日本語なのに解けないんだろう。

 

てか、国語の問題文って文章読みにくくないですか。

特に評論。クソ長ったらしい言い回しで、クソみたいにわかりにくい用語を使って、

クソほど興味もないことについて語ってる。結局結論を読んでみればやっぱりクソだった、なんてことはよくあります。

評論とは、そういうものです。

だけどね、評論こそ全科目のうち最も優しい問題です。ツンデレ問題。

一見難しく見えるけど、全部あのクソ長ったらしい問題文の中に答えを書いているんだもん。公的に許されたカンニングですよ。

 

じゃあいよいよ行きましょうか。

国語ができるようになるための10の方法。

 

今年(平成28年)実施された国語の問題を例にとりましょう。

平成28年度本試験の問題|大学入試センター

ダウンロードはおのおのしてください。

 

さあ、国語の偏差値を上げる必勝法を学ぼう。

 

 国語ができるようになるために必要な10の方法。

 

 

 

①問題文は全部読まない

 

あ、問題を読むときに気をつけてほしいんですよ。

国語が苦手な人に限ってね、全部の文章を読みたがるんですよ。

あほか。その読み方を今日からやめてください。

そして、今から書く読み方を徹底してください。

 

②設問を読む

 

まず、設問を読む。

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ここで言うと「問2 傍線部A~~」の部分。

はい、読み終わったらそこでストップ。

国語ができない人は選択肢を絶対読まない。

選択肢を読まない理由は2つ。

1,選択肢をすべて読んで頭に入れられるほど人の記憶力は確実でないから、

  結局もう一度よむはめになる。つまり時間の無駄。

2,センター試験を作っているのは今これを読んでいるあなたよりも

  確実に国語のできる人であり、

  各科目はおおよそ平均点が満点の六割になるように調整しなければならない。

  そのため、選択肢は迷いが生じるように作られている。

  それを見て迷うのは意味がない。つまり時間の無駄。

 

わかりました?選択肢なんて読む必要ないですよ。最初はね。

なれてきたらある程度体系化できるのと、後半の部分を解くためには読むのもありです。

でも国語の点数がとれなくて偏差値が60行かないような人は読む必要はない。

あなたがするべきことは、設問で何を聞かれているのかを理解することだけ。

ここでは【「リカちゃんの捉えられ方が変容している」こととは、どういうことか。】

を理解する必要があるんだ~そんな認識でいいです。

 

③設問の意味を理解する

意外とこれが大事。馬鹿にしないでやってほしい。

一つ一つ設問のワードを細分化して、自分の言葉でしっかりと言い換えられるようにすること。

たとえば、

・リカちゃん・・・リカちゃん人形ですね。間違いなく。

 

・捉えられ方・・・考え方、認識、みたいなものです。

・変容・・・変わってきたということでしょう。

 

こんな感じで、百パーセントの正解でなくても、

自分で租借できるようにしておかないと設問の意味を取り違えます。

意味を取り違えると、選択肢を選び間違えます。

 

④設問に該当する傍線部分を読む

問題文を読んだら傍線部Aを本文中に探しましょう。

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はい。

 

ここまでは誰でもできます。

 

⑤傍線部を見つけたら、傍線部が含まれる一文を読む

国語ができなくてもこれくらいはわかります。

 

日本語のいいところは始まりと終わりがわかりやすく書かれていることです。

段落の終わりもそうだし、文章の区切りもそうです。

だから傍線部が含まれる1文すべてを読みます。

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⑥傍線部を見つけたら、傍線部が含まれる一文を理解する

 

やっと問題を解くフェーズです。

これもさっきの③設問の意味を理解すると同じように、一文すべてを理解します。

また、この一文に注釈が入っている場合はそれも読みます。

 

・これは・・・?

・評論家・・・こんな感じの評論を書いたり、テレビで評論したりする人でしょう

伊藤剛・・・注釈によると「漫画評論家」

・整理にしたがう・・・評論家の伊藤さんの言っている考え方にのっとるなら

・特定の物語を背後に背負う・・・?

・キャラクター・・・リカちゃん人形やミニーマウスのこと

・その略語としての意味・・・?

・脱却・・・抜け出す、みたいなイメージですかね

・転用可能・・・あてはめることが可能とか、代替可能くらいのイメージで十分です

・プロトタイプ・・・注釈によると「原型、基本型」

・キャラ・・・キャラクター

 

こんな感じです。

ここで気づいてほしいのは、
傍線部が含まれる一文を読んでも、理解できないことがある、ということ。

 

つまり、

「これは」「特定の物語を背後に背負う」「その略語としての意味」という部分をしっかりと咀嚼できないかぎり問題は解けないと言うことです。

 

これが国語を解く上で最大に難しい部分であり、

最大のヒントでもあります。

 

⑦わからない部分を本文中から探し出す

 

では、一つ一つ見ていきましょう。

 

まず「これは」の部分。

多くの国語の問題は、問題文にまるまる傍線が引いてあることはありません。

そのため、一文をすべて読み込む必要があり、そうすると80パーセントくらいの確率で

「これ」「それ」といった指示語に出会います。

そして、指示語はたいていの場合「これ」「それ」と使われている文章よりも前の文章を指します。

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つまり、「これ」は

「自身がキャラクターであるはずのリカちゃんが、まったく別のキャラクターになりきること」と言い換えることができます。

 

⑧文章を咀嚼する

でも、

「自身がキャラクターであるはずのリカちゃんが、まったく別のキャラクターになりきること」といってもちんぷんかんぷんですね。

そういう場合はもっと前の文章にさかのぼりましょう。

その前に、必ずやってほしいのがさっき伝えた文章を咀嚼するということ。

この文章はわかりやすく言うと「リカちゃん自身がキャラクターであるのに、全く別のキャラクターになりきっている」ということですね。

 

それがそもそもどういうことかというと、

その前の文章とイコールの関係です。

 

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キャラクターであるリカちゃんが別のキャラクターを演じるとは、

「平成に入ってからのリカちゃんは、その物語の枠組みから徐々に解放され、現在はミニーマウスやポストペットなどの別のキャラクターを演じるようになって」きたということです。

 

はい、また出てきましたね。

「その物語」。

それでは「その物語」に対応する単語を見つけましょう。

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これはその一文前の中にある「その物語」に対応しています。

7行目の「その物語」=5行目の「その物語」です。

で、5行目の「その物語」は何を表しているかというと、

まさにその直前の文章です。

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つまり、

5行目の「その物語」=「リカちゃんの父親や母親の職業、兄弟姉妹の有無など、その家庭環境においても発売元のタカラトミーが情報を提供し、設定された中での物語」

ということですね。

この中でいう「その家庭環境」というのは「リカちゃんや家族との間の家庭環境」というのはわかりますね。

 

それでいくと、7行目の「その物語」についてもわかりました。

そうすると、「平成~なっています」の青線部分はこういうことです

「平成に入ってからリカちゃんは、タカラトミーが本来情報を提供し、設定していた家族構成や家庭環境といった物語の枠を超えて、ミニーマウスやポストペットを演じるようになった」ということです。

そして、ここまで読み解けると次の「自身が~なりきる」の青線も理解できるようになります。

リカちゃんは本来、一家庭に所属する普通の女の子という設定でした。そのため、設定上ミニーマウスやポストペットになりきる必要は全くないんですよ。

それが平成になってからは全く必要のない別のキャラクターを演じるようになった、ということですね。

 

そうすると、さっきまではてな状態だった部分が埋まります。

・これは・・・「平成に入ってからリカちゃんは、タカラトミーが本来情報を提供し、設定していた家族構成や家庭環境といった物語の枠を超えて、ミニーマウスやポストペットを演じるようになり、本来キャラクターであるリカちゃんが別のキャラクターになりきるようになったこと」

・評論家・・・こんな感じの評論を書いたり、テレビで評論したりする人でしょう

伊藤剛・・・注釈によると「漫画評論家」

・整理にしたがう・・・評論家の伊藤さんの言っている考え方にのっとるなら

・特定の物語を背後に背負う・・・?

・キャラクター・・・リカちゃん人形やミニーマウスのこと

・その略語としての意味・・・?

・脱却・・・抜け出す、みたいなイメージですかね

・転用可能・・・あてはめることが可能とか、代替可能くらいのイメージで十分です

・プロトタイプ・・・注釈によると「原型、基本型」

・キャラ・・・キャラクター

 

そうするとですね、何か気づきませんか?

物語という言葉が出てきて、はてな状態だったモノ。

そうです、もう一つのはてなだった

・特定の物語を背後に背負う・・・?

も埋まるんですね。

 

・これは・・・平成に入ってからリカちゃんは、タカラトミーが本来情報を提供し、設定していた家族構成や家庭環境といった物語の枠を超えて、ミニーマウスやポストペットを演じるようになり、本来キャラクターであるリカちゃんが別のキャラクターになりきるようになったこと

・評論家・・・こんな感じの評論を書いたり、テレビで評論したりする人でしょう

伊藤剛・・・注釈によると「漫画評論家」

・整理にしたがう・・・評論家の伊藤さんの言っている考え方にのっとるなら

・特定の物語を背後に背負う・・・たとえばリカちゃん人形のようにおもちゃメーカーなどが本来情報を提供し、設定していた家族構成や家庭環境といったそのキャラクターならではの物語を背後に背負う

・キャラクター・・・リカちゃん人形やミニーマウスのこと

・その略語としての意味・・・?

・脱却・・・抜け出す、みたいなイメージですかね

・転用可能・・・あてはめることが可能とか、代替可能くらいのイメージで十分です

・プロトタイプ・・・注釈によると「原型、基本型」

・キャラ・・・キャラクター

 

オッケーですか?

ここまで来ればあともう少しです。

 

⑨咀嚼しきれない場合は前後の文章を読み込む 

もう一つはてながありますね。

・その略語としての意味・・・?

 

という部分です。

 

これを解明するために、さっきの緑線の手前を読んでいきます。

 

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 重要そうなところに黄色線を引きました。

要約すると、

「1967年に初代リカちゃんが出て、現在まで世代を超えた人気国民的キャラクターになっている。それはまさに国民的アイドルとも言えるくらいの人気っぷりだ。そして、それまでのリカちゃんは子供にとってはあこがれの生活スタイルそのものだった」

ということと、

「現代になってその捉えられ方が変化している」

ということです。

 

つまり、

・その略語としての意味・・・「リカちゃん人形を憧れの生活スタイルとして捉えていたという意味」

 

となります。

これですべてわからないことは出そろいました。

・これは・・・平成に入ってからリカちゃんは、タカラトミーが本来情報を提供し、設定していた家族構成や家庭環境といった物語の枠を超えて、ミニーマウスやポストペットを演じるようになり、本来キャラクターであるリカちゃんが別のキャラクターになりきるようになったこと

・評論家・・・こんな感じの評論を書いたり、テレビで評論したりする人でしょう

伊藤剛・・・注釈によると「漫画評論家」

・整理にしたがう・・・評論家の伊藤さんの言っている考え方にのっとるなら

・特定の物語を背後に背負う・・・たとえばリカちゃん人形のようにおもちゃメーカーなどが本来情報を提供し、設定していた家族構成や家庭環境といったそのキャラクターならではの物語を背後に背負う

・キャラクター・・・リカちゃん人形やミニーマウスのこと

・その略語としての意味・・・「リカちゃん人形を憧れの生活スタイルとして捉えていたという意味」

・脱却・・・抜け出す、みたいなイメージですかね

・転用可能・・・あてはめることが可能とか、代替可能くらいのイメージで十分です

・プロトタイプ・・・注釈によると「原型、基本型」

・キャラ・・・キャラクター

 

導き出した情報をもとにもう一度傍線部全体の一文を読んでみましょう。

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⑩選択肢は「本文に書かれているか・いないか」だけで判断する

 

 

ここまで来れば得た情報を当てはめて、咀嚼して、

設問の選択肢から正解を導くだけですね。

 

では選択肢です。

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1つ1つ見てみましょう。

 選択肢を読む際にあなたの主観や意見や推測は全く必要ありません。

そんなもの試験で役に立つことは永遠にないのでごみ箱に捨ててください。

 

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各選択肢の

青線=本文で言っていること

赤線=本文で言っていない、間違っていること

です。

 

選択肢①・・・すべて言っていますね。特に後半部分が本文ではそのままの言葉で言っていないのでひっかかりやすいかもしれないですが、「どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す言葉となったキャラへと」変わったといっています。よって

 

選択肢②・・・「ごっこ遊び」に使われることで、変わったわけではありません。その後の後半部分も本文では触れていません。よって×

 

選択肢③・・・遊び道具としての意味を逸脱、なんて言っていません。また国民的アイドルといえるものにこのタイミングで変わったわけでもありません。よって×

 

選択肢④・・・後半部分は本文中では触れていません。よって×

 

選択肢⑤・・・後半部分は本文中では触れていません。よって×

 

つまり、正解は選択肢①ということです。

 

一応答え合わせ。

  

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はい、合ってますね。

 

まとめると、

 

 国語ができるようになるために必要な10の方法。

 

 

ということです。

 

どうでしたか?

これが国語ができるようになるためのたった10の方法です。

何度も言うようですが、評論も、小説も、センター試験も、中学国語のテストも、すべて同じ流れで問題を解くことができます。

 

最初は時間がかかってしまうのは仕方ないので、

納得できるまで問題と向き合い、徹底的に咀嚼してください。

 

いうなれば、国語は咀嚼です。

自分の言葉で理解して、説明できる状態になれば評論にアレルギーが出ることもないでしょう。

 

ぜひ、これをきっかけに国語を少しでも好きになってもらえればと思います。

 

マーケティング視点から見た飲食店における「アベ政治を許さない」グッズのデメリット

今日のランチは久しぶりにがっつりご飯が食べたくなって、

近くの定食屋さんに行った。

 

定食屋というにはあまりに狭い店でカウンターしかなかったけど、

それでも生姜焼きの魅力に惹かれて入店した。

 

おっさんしかいないぎゅうぎゅう詰めの店を進んでいって、

一つの席に座った瞬間目に飛び込んできたのがこのバッジ。

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店選び大失敗。

そんな気分でした。 

正直こんな店すぐにでも出たかったというのが本音ですけど、

くそ狭い店内を再度引き返す勇気もなく生姜焼きを注文しました。

 

ぶっちゃけね、どうでもいいんですよ。

この店のオーナーが左だろうが、右だろうが。

アベ政治を許さなかろうが、支持していようがいまいが。

そんなの好き勝手やっててくださいよ。こっちは知ったこっちゃないから。

 

そうなんですよ。

こっちは知ったこっちゃないんですよ。

あんたの店の外に生姜焼きって大きく出てたから入ったわけであって、

【「アベ政治を許さない」店主がやっています】って書いてあったら間違いなく足を踏み入れませんよ。

 

この時点で定食屋を使うターゲットの心理を理解していないですよね。

どこのサラリーマンが真っ昼間から飯食いながら政治の話しますか?

シールズだってもうちょっとおとなしいと思いますよ。昼飯食っているときは。

ああ、この店は俺と同じ思考を持っている店だ。よし入ろう、なんて考えないでしょ。

そんなおかずにもならない主張は厨房の中にしまっとけ、っていう話ですよ。

 

 そもそも気持ち悪いと思いませんか。

今でこそこの「アベ政治を許さない」というフレーズが大衆化して、

認知されているからかろうじて、百万歩くらい譲って許容されているとしても。

共産主義万歳!」とか「公明党に清き一票を!」なんて書いてあるバッジやポスター掲げてる店に入りたいですか。

自民党死ね!」とか「民進党は日本の恥!」みたいなフレーズ書いてあったら、

確実にここの店やばいなってなるでしょう。

それと一緒ですよ。

 

飯がまずいとか、愛想がないとか、そんなステップに行く前に

「この店やべえ」って気持ちが先行しますよきっと。

 

飲食店を訪れる人間の心理を考えないで、

自分の主義主張を垂れ流してる店なんかマーケティング的にクソもいいとこですよ。

 

料理やサービスの質の前に、もっと根本を見直すことの重要性に気づいてほしい。

そんなことを思いながら「サービスだよ」って出された冷や奴とピーマンの漬け物をほおばりながら考えていました。

 

そういうサービスがあると、

ここいい店だなって思うんですよね。

また来たいなって。

そういうマーケティング戦術を持っているのにもったいないなって思ったり。思わなかったり。

 

 

 

たいていの失敗は、たいてい乗り越えられる。

って書いてある記事は、どうもうさんくさい。

たいていの失敗は、たいてい乗り越えられることなんて、

誰でも知ってる。

それでも失敗したくないから、人は失敗しないようにする。

 

 

最近気づいたことがあって、

すげーミスを仕事でしても、たいてい殺されないし、

どんなに締め切りを過ぎても、死ぬことはない。

 

もっといえば、一日くらい飯を食わなくたって、

一日くらい寝なくたって、人は死なない。たいてい。

 

でも、世の中を見てて思うのは、

一日でも飯を抜くと死ぬんじゃないかって思ってる人や、

一日でも寝ないと死ぬんじゃないかって思ってる人が多い気がする。

 

嘘でしょ。

こんなこというのって、

最近の若者は、みたいなオッサンくさい説教に聞こえるけど、

実際、嘘でしょって思うんですね。

 

いや、死なねーから。

そんな簡単に、人は死なねーからって。

 

だからね、くそ仕事が忙しくたって、

あるいは、一生を捧げてもいいくらい好きになった人に振られたって、

大学に落ちたって、就職失敗したって、

死なねーから。

 

つまりね、たいていのことはどうにかなっちゃうんですね。

死なないんだから、思い切り踏み外したっていいですよ。

時にはその道を。

 

これはね、一回もジェットコースターに乗ったことがないガキが

ジェットコースターを恐れるとの同じなんですよ。

 

失敗しろやって思うんですね、もっともっと。

実際失敗しないこともあるし、

なにより、死なねーから。

デブへのレクイエム。デブイエム。

 

仕事を終わらせずに、

仕事のことでゲロを吐きそうになる。

 

そんな気分で月曜日は出社する。

だったら、初めから全て終わらせてから休みに入ればいいのに、

なかなかそれは現実的でない。

 

きっと、業務量云々というよりも、

自分自身の精神的弱さというか、まあいっか精神で休みに入っていく。

 

ところで、これはダイエットにも通じる。

運動でも、食事制限でも、なんでもいいけどダイエットは、

やり遂げられる人と、やり遂げられない人がいる。

 

標数値の大小ではなく、

その目標に対してコンスタントに向き合うことができて、

ストイックに自分を追い込める人。

それがダイエットを成功させることができる人。

 

でも、ダイエットをやり遂げられない人はそれができない。

美味しいご飯を前に、お腹減ってるし、まあいっかとご飯を食べる。

毎日の運動をタスクに掲げているのに、

雨だし、寒いし、まあいっかとゴロゴロする。

 

きっと仕事をこなせる人と、ダイエットを完遂できる人には共通点がある。

そして、仕事ができない人と、ダイエットができない人にも共通点がある。

 

だから、デブに仕事は頼むな。

デブに期限を設定した依頼や、クオリティを担保すべき業務をお願いしてはいけない。

 

なぜなら、デブは甘えん坊だから。

自分に、人に、人生に対して甘えん坊だから。

 

マシュマロボディとか、わがままボディとかという言葉が巷に溢れている。

本当に、クソ食らえだ。

 

デブは自己防衛と、自己正当化が大好きだ。

言い訳を目の前に差し出せば、醜い体を揺らしながら喜んでそれに依存する。

 

アメリカでは、「デブ=仕事ができない」。

そんな烙印を押されてしまう。

自己管理ができないことが理由らしいが、

本当はもっと本質的なところにあるはずだと思う。

仕事の管理、会社の管理ができないことももちろんデブが敬遠される理由だけど、

何よりも「甘さ」こそ、最大の要因だと思う。

 

もちろん、これはアメリカに限った話ではない。

日本でも、デブを嫌う企業は少なくない。

特に営業職を採用している企業は、デブは採用しない。

逆に言うと、デブの営業職、

あるいは入社後デブになった営業職を平然と野放しにしている企業も、

同じくらい自分たちに甘いのだ。

 

その甘さは結果的に他に矛先が向き、いつかは損害へとつながる。

 

じゃあ、どうすればいいのか。

そんなものはわかりきっている。

痩せればいい。仕事に対してストイックになればいい。

設定した目標に対して、どこまでもストイックになればいい。

そんなことも分からないから、デブはデブのままだし、

仕事ができない奴は仕事ができないままなのだ。

 

という冗談は置いておいて、

現実的に将来性のある話をしようと思う。

でも、あくまでも一意見として。

なぜなら、仕事ができないことを棚に上げて、

デブであることも棚に上げて、

つらつらと長いことを書いている人にろくな人はいないのだから。

 

簡単に言えば、デブも、仕事ができない人間も、その原因は自分に対する甘さにある。

精神論や根性論ではなく、目標に対する達成意欲が極端に他人よりも低い。

言い換えれば、そこさえ改善できればデブを脱却し、

仕事ができない人間という汚名も返上できるはずじゃなかろうか。

 

目標という考えを捨てる。

目標という言葉が諸悪の根源となる。

特に自分に甘いクソ野郎たちにとっては。

目標とは、努力義務であり、達成可能なゴールのようなものである。

つまり、MUST条件ではなくWANT条件にすぎない。

なら、WANT条件を無理やり作り出すしかない。

 

例えば①有言実行。

周りに目標を公言する。周りに監視役になってもらう。

もちろん罰則はあったほうがいい。

この目標ができなかったらみんなにランチをおごるなど。

痛いけど、非現実的でない罰則を設けて、達成意欲を駆り立てる。

 

例えば②成功体験を重ねる。

常人がかろうじて達成できる目標は、たいていデブには達成できない。

自分への甘やかしが尋常じゃないから。

そのため、自分に甘いデブでも達成可能な小さな目標立てる→達成を繰り返し、

目標を達成した時に得られる満足感、高揚感を体に覚えさせる。

そして、目標へのストイックな向き合い方を訓練する。

 

例えば③物理的に環境を変える。

断食道場、肥満科、胃縮小手術など、

物理的に自分の周りの環境、ひいては自分自身を変えてしまう。

 

実行難易度は上から順に難しくなる。

なぜなら③を実行できる人間はたいてい自分に厳しくできるから。

 

それでも、ここまで読んで、さあ動き出そう。

気持ちが感化された、これから心新たに頑張ろうと思えたなら、

きっとチャンスはある。

 

なんてことはまるでない。

デブは擬似達成感を味わうのが一番得意だから。

これを読んで、なんだか自分の気持ちが入れ替わったような気がして、

満足する。

きっと、明日から頭の片隅には入っていたとしても、

何も変わらない。

断言してもいいけど、何も変わらない。

どうせデブは見ず知らずの人間の説教じみた講釈を読んだところで、

何も感化されないし、心はおろか体も動かされない。

デブは、結局のところ、デブのままなのだ。

デブがダイエットに成功した時、そこにいるのは元デブではない。

人として生まれ変わった、新たな人間に違いない。

だから、デブがこれを読んで明日から頑張ろう、などどほざいている時点で、

周りの生まれ変わった人間よりも10歩も20歩も遅れている。

 

それに気づかないなら、それでいいし。

気づいてもまあ、いっかと思っているならそれでもいい。

裸になって自分の写真を撮ってみろ。

その姿を凝視して、誰かに送ってみろ。

それができないなら、今変われ。

手に持っているスナック菓子をゴミ箱にぶちまけ、

ストックしてあるカロリーの塊を投げ捨て、

両手でつかんでもあまりあるほどの贅肉に舌打ちをして、

外に走りに行くのだ。

雨だろうが、寒かろうが、外に走りに行くのだ。

その一歩をこの瞬間踏み出せたなら、

明日からも踏み出せるはず。

 

デブよ、今までの自分を見返すのだ。

人生を、もう一度走るのだ。